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デジタル時代の井戸端会議|SNS民度低下の理由とユーザーの知性崩壊

SNSやウェブサイトのコメント欄を眺めると、現代人の知性が崩壊寸前に見えることがあります。

このうんざりする内容は会話のコロッセオなのか、それとも無秩序な言語を書き殴る混沌の温床なのでしょうか?

本来、コメント機能は特定の主題に対してコメントを残していくために使われるものです。

理想論を言えば、不足している情報や、有益な備考、投稿者に対するお礼、建設的な指摘を残す人など、知的好奇心に満ちた人々が建設的な意見を交わす場所です。親切な返信や鋭い洞察を投稿する稀有なユーザーも存在します。

しかし現実を見ると、YouTubeなどの動画プラットフォームが顕著ですが、コメントをするユニークユーザーは約3%以下程度です。

つまりほとんどの人はコメントなどしません

そんな中で、本題と全く関係のない内容、文法を無視した支離滅裂な文章、唐突な自分語り、突如湧き出る無意味な感情吐露──まるで言語の無法地帯、本題とは関係のない事を書いていればおかしな人が沢山居る様に見えるものです。

認知機能の差

そもそも世の中は認知機能の低い人の方が多数派です。

彼らにとって「考える」という行為は、高級ワインのような贅沢品と化しています。飲み方(考え方)を学ぶ気もなく、手軽なジュース(浅い意見)で満足してしまいます。

当然ながら、何かにコメントする際も、事前に調べたり熟考したりする習慣はありません。代わりに、自分の思い込みや、誰でも思いつくような凡庸なツッコミを投げかけます。

「考える? 調べる? そんな面倒なこと御免こうむりたい」といった驚くべき怠惰が支配しているのです。

加えて、ワーキングメモリの容量不足や認知の歪みが、彼らを衝動的な行動へと駆り立てます。

そして、同じような認知レベルの人々が「そうだそうだ!」と無邪気に誤った称賛を送り、承認欲求を満たしてしまう。この悪循環が固定化すると、彼らは「これでいいんだ」と誤った学習をし、自発的な改善が極めて困難になります。

認知機能が低い人にとっての誤った学習は、一種の猛毒です。

さらに、基本的に多くの人は「理解する努力」を放棄しています。そのため、自分が求める答えが目の前に転がってくれば、たとえ間違っていても飛びつくし、都合の悪い意見には攻撃的に反応することもしばしばあります。

まるで、「自分が無知である」という事実を攻撃という鎧で覆い隠そうとしているかのようです。

一方、認知機能が高く情報量が豊富な人は、調べたり考えたりして論理を組み立てることができますが、残念ながら少数派です。

そもそも、事情通が大勢いる世界など、あり得るはずもありません。

結果として「悪貨は良貨を駆逐する」ため、認知機能の低いだけが残り跋扈ばっこしてしまいます。

深い洞察を求められる高尚なコンテンツはなかなか受け入れられず、浅く刺激的なコンテンツがもてはやされる——これは、当然の帰結と言えるでしょう。

褒めることの難しさ

「褒めることは難しい」ため、実際には高度な認知能力や社会性を必要とする複雑なコミュニケーションスキルです。

ただ適当にヨイショするだけなら簡単ですが、本当に相手を適切に褒めるには、観察力、共感力、社会的知性、さらには自己肯定感や自信までもが求められます。

一見単純そうに見えて、実は奥深い行為なのです。

他人の主題と自分の主張

SNSや各種サイトにコメントする行為は、基本的に「他人の主題に対する反応」です。

しかし、日頃からアウトプットが不足していたり、何かしらの鬱憤を抱えている事柄だったりすると、他人の主題を使って自分の主張をしようとします。

文章を書く際によく言われるのが、「テーマを一つに絞ると書きやすくなる」という鉄則。

しかし、SNSではこれが真逆に働きがちです。他人の話題に自分の主張を強引にねじ込むことで、話の焦点がブレ始め、結果として論点が混線。気づけば、相手の主張とはまるで別物の「藁人形(ストローマン)」が出来上がってしまいます。

こうして、いつの間にか「本来の話題」とは関係のない論争が繰り広げられ、話が噛み合わず勝手なテーマで戦い続けるという、SNSならではの奇妙な現象が今日もどこかで生まれています。

歪んだ中心、SNSの奇妙な渦

SNSは不思議な構造で、相手をすると相手にした人間を中心に謎の渦が出来ます。

誰かが何かを発信すれば、それに反応する人が現れ、さらにその反応に対する反応が生まれます。こうして、元々の発信者を中心に謎の渦が形成されていきます。

本来、小さな個人の叫びは放っておけば風とともに消えていくものです。

しかし、SNSは「放っておけない暇人」が一定数存在します。彼らの関与によって、些細な発言が思わぬ広がりを見せ、時には不毛な大騒ぎへと発展してしまうのです。

バカは放置すると増長し、訂正しても何の関係も無い外野が騒ぎ出します。

無関係なのにやっかみを言っている人は承認要求がかなり強いかまってちゃんです。

そして、承認欲求が強い人はこの構造を利用すると注目が詰まる事を、「誤った成功体験」として積み重ねています。

象徴的な例のひとつが、「スクショ付きブロックされてますアピール」です。まるで勲章のようにブロックされた証拠を掲げ、自己顕示欲を満たす姿は、SNSにおける奇妙な儀式とも言えるでしょう。

SNSの中心は常に歪み続けています。その渦に巻き込まれるか、冷静に眺めるかはユーザー次第です。

感情の煽動

コメントする元になる記事や動画が意図的な切り抜きで、特定の物や人に攻撃を集中させたり、賛否ある内容や、明らかな嘘を書いたニュース記事だったり、わざと攻撃性を助長させる内容が増えています。

こういった内容が後を経たないのは、それに人が集まるからです。

イナゴの様な短絡思考のユーザーが群がるので、傍から見ると短絡的すぎて、品性や思考に問題のある集団のように見えます。

まともな人や優秀な人はこう言った行動はしません。なぜなら、他人に対してネガティブに突っかかっても、自分に有益なことは何も起きません。

本人はストレス発散のつもりで行っているのでしょうが、こう言った行動をする事自体が心理的に自分を攻撃することになり、延々と負のループにハマるので自分に対してデメリットしかありません。

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サイト毎の住み分けとカオス

SNSは壁に囲われた庭園のようなものです。ある程度の住み分けが行われ、Webサイトによってユーザー層の傾向は異なります。

例えば、食べログのような口コミサイトであれば、評価ポイントを整理し、構造化して文章にまとめるだけで済みます。しかし、これが意外と難しく、情報を分析・比較できない人が曖昧な表現を連発し、結果としてポエムのようなレビューが大量生産されます。

一方、ヤフコメとなると事情が変わり、ここには否定的な意見を持つユーザーが多数生息し、さらに「沸点ゼロ」の攻撃的なユーザーも多いため、バラエティ番組の切り抜きニュースですら犯罪のニュースかと言うくらい怒り狂っています。

YouTube(日本)のコメント欄は、低年齢層向けかつ信者村化しやすい環境のため、論理性とは無縁の感情的で稚拙なコメントが目立ちます。まるで子供の落書き帳のような空間が広がり、議論など望むべくもありません。

それ以外のコメント欄やブックマークサイト は、手当たり次第に不満をぶちまけたい人の温床になりがちです。

街中で大声で喧嘩をしている人を見掛ければ、ヤバイ人だなと判断できますが、文章になると温度感や背景が削ぎ落とされるため、違和感はあってもそこまでの危険を感じにくいのが厄介なところです。

親切心で指摘しようものなら、気が狂った人、盲目的な信者、承認欲求に飢えた「かまってちゃん」に絡まれ、地獄を見ることになります。

どこでも同じですが悪い傾向を持つ人間の滞留は、淀みを生み環境を悪くします。これはどんな組織でも起こりうる現象です。

住み分けできない人

口コミを書けるようなサイトは、割と野放図に書きやすく出来ています。

そして「自分がどこにいるか理解せず、どこでも同じように振る舞う人」が一定数います。

例えば、X(旧Twitter)の短文文化 には、かつての2ch的な過激スラングやミームに憧れを持つ層が一定数存在し、「過激であればウケる」と妄信しているユーザーがいます。

彼らは、攻撃的な言葉を使うことがデフォルトになりがちで、非常に厄介です。

また、端的な文章は情報量が少ないため、理解力の乏しい人でも「文字を読んだ気になれる」 という問題もあります。

読解力が追いついていなくても、何となく「わかった気分」になり、見当違いの解釈やトンチンカンな反応が増殖してしまうのです。

結局のところ、どこの世界でも、それぞれのルールや文化があり、場に応じた適切なふるまいが求められます。

しかし、住み分けを無視し、どこへ行っても同じ振る舞いをする人々が混ざることで、今日もまた新たなカオスが生まれています。

いっときの快楽のために正義を振りかざす

ネット上でよく見かけるのが 何か小さな異変を感じた時に鬼の首でも取ったかのように大きく騒ぎ立て、自分の意見と違う人がいれば徹底的に否定してその人の人間性まで否定しようとする人です。

最近は内容の是非など関係なく、その人の中にある謎の正義感を振りかざして相手を攻撃するやり方が増えています。

様々な有名人の不祥事が報じられ、ターゲットは目まぐるしく変わっていきましたが、他人の悪事を声高に批判する人々は、概して次のような感覚を抱いたのではないでしょうか。

「悪を叩いてスッとした、楽しかった」と。

なぜ悪を叩くとスッとするのでしょうか?それは、悪を批判することによって、まるで自分には悪がないかのように錯覚し、自身の中にある認めたくない悪を否定できるからです。

この行為は、自分が否定した「悪」を他者に転嫁して投影しているのです。

例えば、攻撃対象に対して金の問題ばかり取り上げていれば、自分を高く評価しているけど稼げていない現実を、心の「影」として抱えています。

そして、自分が抱える「影」を追い払うかのように、無意識のうちに他者へ投影しているのです。

自己嫌悪の対象となる「悪」を抱えているからこそ、他者の「悪」を見つけた際に、それを過剰に排除しようとし、あたかも自分が正義であるかのように振る舞ってしまいます。

正義と悪は、人間の内面において表裏一体の関係にあり、自らに後ろめたい気持ちや負い目を感じている人ほど、他人を攻撃することで溜飲を下げ、快楽を得ようとする傾向があると言えるでしょう。

最後に

SNSやコメント欄、それは現代の「井戸端会議」…いや、もっとカオスな戦場かもしれません。多くの人にとってストレスの温床になりがちです。

ほとんどの人は黙ってスルーする中、特定の層が感情的な自分語りや的外れな指摘を繰り広げます。

偽善の剣を振りかざし、論破したつもりが、実は自分の中の認めたくない影と戦っているだけ、というのもよくある話です。

認知機能の低い人が住み分けができずに、どこにでも現れるのもお約束。

一番賢いのは、冷静にスルーし「読む価値のあるものだけを読む」ことです。

デジタル時代のコメント欄は、人類の知的進化の壮大な実験場。時に笑い、時に悲しくなる、そんな感情のるつぼなのかもしれません。

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