SNSが普及した現代、私たちは「いいね」と「炎上」が交差する不思議な時代を生きています。
何か問題が発生した場合、一定数の人は最初の対応で責任を転嫁する傾向にあります。
しかし、優れた最初の対応は、問題に直面したとき、真っ先に「私のせいじゃない!」と叫ぶ代わりに、「どうすれば良くなるだろう?」と考えてみる事です。この小さな意識の違いが、大きな変化を生むかもしれません。
では、同じような状況で、他人のせいにしようとする人もいれば、冷静に建設的な解決策を求める人がいるのはなぜでしょうか?この違いは、まるで同じ絵を見ても、人によって異なる感想を持つようなものかもしれません。
自分の不都合を社会のせいにしがちな人は、次のような特徴を持つことがあります。
外的な支配の所在
「世の中が悪い」「時代が悪い」—私たちの周りには、そんなため息が似合いすぎる人がいます。
行動力がない人にみられる特徴で、自分の状況を変えることができないと感じ、自分の問題の責任は社会にあると考えています。
確かに、私たちは社会という大きな潮流の中で生きています。景気の波、時代の風、予期せぬ嵐…。自分の行動や意思決定よりも、社会状況などの外的要因の方が、自分の人生に大きな影響を及ぼす事もあるでしょう。
しかし、その中でも舵を取るのは、やはり自分自身です。 責任を社会に投げ出せば、確かに心は楽になりますが、その代償として失うものも大きいのです。
自分の人生を創造する喜び、困難を乗り越えた時の達成感、そして何より自分の人生の主人公である実感。
自分をどう変えていくか、その選択はいつだって自分の手の中にある事を忘れてはいけません。
被害者意識
「世の中は不公平だ!自分の不幸は周りの環境のせいだ」—そんな叫びを一度は胸の内で響かせたことがあるでしょう。
義務を果たさず権利を主張する人にみられる特徴で、自分は特定のものを得る権利があるのに、社会は自分にふさわしいものを与えてくれないと感じています。
この考えを常套句にしてしまうと、厄介な事が起きます。
人生という舞台で、自分を「不当に扱われた主人公」として演じ続ける人を想像してみてください。
台本には「社会が悪い」「私には権利がある」といったセリフが並び、観客(SNSのフォロワーたち)からは「かわいそう」「その通り!」という声援があればなかなかの好演です。
このドラマには落とし穴があります。主人公は被害者意識に酔いしれるうち、いつしか自分自身をその役に縛り付け、自分の欠点や失敗を正当化してしまうのです。
このような被害者意識は、他者からの同情をもたらし、SNSなどで誤った賞賛をされてしまう事さえあるので、社会に対する非難を強める可能性があります。
社会は完璧ではありません。不公平で理不尽など当たり前の日常です。その現実を盾にしていると、自分自身の可能性を見失ってしまいます。
結局のところ、人生最高の脚本家は、他でもない自分自身。社会という大きな劇場で、どんな物語を紡いでいくのか—その選択は自分次第です。
責任感の欠如
「社会が悪い」という言葉は、魔法のような響きを持っています。この魔法の呪文を唱えれば、重たい責任のリュックサックを、ふわりと宙に浮かせることができる。なんて便利な言葉でしょう。
そして、もう一つの魔法の呪文が「誰かが何とかしてくれるはず」。この呪文を唱えれば、目の前の問題という険しい山を、誰かが踏み均してくれる未来が見えてくるはずです。
面白いことに、心理学者たちが発見した「責任を取ることに関する研究」によると、人は自分に変化の可能性を見出したとき、間違いを認める可能性が高くなります。
考えてみれば当然のことです。登山家が新しい装備を手に入れたとき、より険しい山に挑戦する勇気が湧くように、間違いに対して責任を取ることは、行動を変える第一歩だからです。
自分には成長の余地があると信じられれば、「ごめんなさい」という言葉も、そう重くは感じないものです。
責任という重みを放り投げれば、同時に自分で人生を切り開く力も手放してします。
「誰かが何とかしてくれる」と待ち続ければ、自分で道を切り開く筋肉が衰え、本来あるべき筋肉が育たず老衰していきます。
ただし、これは「全ての非難を受け入れなさい」という話ではありません。むしろ、本当の責任を取れる人は、不当な非難には「それは違います」とはっきり言う、そんな大人の余裕も持ち合わせています。
人生最高の魔法使いは自分自身です。自分の杖を振るって道を切り開く方が、素敵な冒険になるはずです。
認知機能の低さ
一番の原因は認知機能が低いことによって、自己認識や社会全体を理解できない事です。
自分の不都合を社会のせいにする人は、自己認識が乏しく、自分の行動、選択、責任に対する洞察力に欠けています。
自分の不都合を招いたと思われる行動や決断を検証することがなく、問題の原因として外的要因にばかり目を向けます。
考えてみれば、私たち人間にとって最も難しい謎解きは、「自分」かもしれません。
まるで暗闇の中で自分の姿を確認するように、自分の行動や選択の真の理由を見つけることは、骨の折れる作業です。だからこそ、「外的要因」という明るい看板に目を奪われてしまうのです。
しかし、ここで面白い逆説が生まれます。
自分を見つめることから逃げれば逃げるほど、実は自分自身が見えなくなります。さながら、地図を持たずに旅をするように、自分の人生の道筋も見えにくくなってしまうのです。
自己認識とは、言ってみれば「内なる探偵」のようなものです。時には不快な証拠を突きつけてくることもありますが、その情報こそが、より良い未来への道しるべになる事もあります。
自己認識の欠如は、自分の選択や行動に主体性を持つことを妨げるため、個人の成長や発達を阻害します。
自分の心の声にじっと耳を澄ませ、自分自身と対話することも案外楽しいものです。
認知的バイアス
自分の不都合を社会のせいにする人には、帰属バイアスや確証バイアスなどの認知バイアスが関与している可能性があります。
私たちの頭の中には、とても器用な「物語作家」が住んでいるようで、この作家なかなかの曲者です。都合のいい情報だけを拾い集めては、見事な「社会が悪い物語」を紡ぎ出してし、自分の信念に合う証拠だけを丁寧に拾い集めるのです。
例えば、「自分の問題は社会のせいだ」という信念を裏付けるように情報を選択的に解釈・認識する一方で、その信念に反する証拠を見なかったことにしてします。まるで、自分の物語を壊したくない子供のようです。
このちょっと困ったクセ、心理学では「認知バイアス」と呼んでいます。「帰属バイアス」や「確証バイアス」という専門用語もありますが、要するに「都合のいい話だけ集めちゃう症候群」というわけです。
この内なる作家が書く「社会が悪い物語」に没頭すればするほど、実は別の魅力的な物語、たとえば「自分で自分を変えていく物語」を見失ってしまいます。
最高の物語は、現実をありのままに受け入れた上で紡がれるものです。時には厳しい編集者の視点も必要なのです。
まとめ
不都合を社会のせいにすることは、どうしようも無い、駄目な人なりのストレス発散と場当たりの対処法ですが、個人の成長や発達にとって極めて有害でなので注意する必要があります。
誠実であろうとする一貫した努力は、自分が有能であることを一貫して再確認させ、エラーを個人の欠陥、欠点の証拠ではなく、改善の機会として捉えることができます。
責任を受け入れる能力は、人間関係において競争ではなく協力を促し、親密さと相互尊重の機会を増やすことに繋がります。
外的要因のせいにするのではなく、自分の行動や判断に責任を持ち、なにより積極的に行動し、問題の解決策を模索することが重要なのです。